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2019-10-23

脳死肺移植体格差制限見直し検討


朝日新聞デジタル:脳死肺移植、大人から子どもにも 体格差制限見直し検討

医療の面では歓迎すべきこと

臓器を分割して(小さくして)移植する技術が確立したため、これまで”丸ごと”移植ではサイズが合わずに不可能であった大人から子供への肺移植が可能になった。これは、未来ある子供の命を救う可能性が高くなったと言うことで歓迎すべきだろう。

その立場になったことがないので、本当の気持ちはわからない。だが、自分の身体に合う臓器を持つ人の死を待たねばならないことは精神的にも大きな苦痛だろうと想像する。後ろめたさ、罪悪感、そんなものを感じてしまうこともあるのだろうか。今回の見直しが実現すれば、「自分にぴったりの」相手ではなくても良くなったことで、対象を意識することが多少でも弱まるだろう。そして、精神的負担が少しは減るのではないかと思う。その点でも見直しはすべきと考える。

脳死は「人」の死である

臓器移植の前提となるのは「脳死」を認めることだろう。

心臓が動いていて、身体に血液が送られ、各臓器は本来の機能を果たしている。だが、脳が損傷を受けていて「意識」が戻ることはない。厳密な定義はあろうが、概して言うとそんな状態が脳死だと解釈している。見た目は「寝ているように見える」という話もある。これを死と認めることに抵抗があるのは致し方ないし、理解できる。だが、脳が不可逆的に破壊されてしまったら、その「人」の記憶や思考が喪失したことになる。それはもう、その「人」が個人としてのアイデンティティを失ったことであり、動いている部分はあるものの、「人」として死んだのだと考える。これは生物学的な話でもあると共に、人とは、個人とは、その人を人たらしめているアイデンティティとは、という問題でもある。

新陳代謝を考えれば、人の身体を構成している細胞は日々、生まれては死んで行っている。だが、構成要素は変わっていっても、その人自身は同じ人物として継続的に存在していると捉えられるし、本人もそのように自覚しているだろう。そのアイデンティティの根源、連続性を保っているものは、脳みそが行っている「考えること」や「記憶している」ことだ。脳みそ以外の身体の一部を失っても、その人が別の人になることはない。だが、脳みそが損傷し、損失してしまえば、アイデンティティは失われる。それはもう、その「人」ではなくなるのだ。アンパンマンのように、頭を取り替えても同じ「人」であると言い張ることには大きな違和感を感じる。そんな訳で、心臓が動いていても、体温が保たれていても、そして呼吸をしていても、脳みそがその機能を失えばそれは「死」であると考える。

そして、脳死を認めるからこそ臓器移植にも私は賛成するのである。

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